細川ガラシャと英彦山
2016-10-04 (火) 13:26:39 (2723d)
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大友宗麟によって焼き討ちにあった霊仙寺講堂(現在の英彦山神宮奉幣殿)を細川忠興公が再建したのは、妻・ガラシャの十七回忌に当たる1616年のこと。
「ガラシャ」という名は、密かにキリスト教の洗礼を受けて得た洗礼名で、彼女の壮絶な死後、親しみを込めてそう呼ばれています。
家臣同士の関係を深めようとした織田信長は、明智光秀に娘を細川家に嫁がせるよう勧めました。こうして15歳で細川家の嫡男・忠興の妻となったのが、のちにガラシャと呼ばれることになる「玉(玉子)」でした。
しかし「本能寺の変」が起きたことにより逆臣の娘となってしまった玉は丹後に幽閉されてしまいます。やがて、秀吉のとりなしもあって大阪に戻ることができましたが、その後も忠興は戦が続き、玉自身も厳しく監視される日々が続きます。そんな中でキリスト教の教えに触れ、洗礼を受けたのでした。
関ヶ原の戦いで夫・忠興が徳川方につくと、大阪にいたガラシャを人質に取ろうと石田三成の軍勢が屋敷を取り囲みます。これを拒んだガラシャは自害(一説には自害を禁じたキリスト教の教えに従い、家臣に槍でつかせたとも)。38歳で生涯を終えました。
夫・忠興は玉が洗礼を受けたことに激怒したとされていますが、一方で夫婦仲が大変良かったともいわれており二人は五人の子をもうけています。実際にガラシャの死後、忠興は教会葬を依頼し参列しています。莫大な財を投じた英彦山の奉幣殿再建も十七回忌に当たっており、亡き妻への想いを感じずにはいられません。
さて、ガラシャへの思いを込めて、忠興は「奉幣殿」の造りに密かに十字架を取り入れているという話があります。
是非、見つけてみたいですね!